「仏祖の言葉は仏祖の身心のあらわれである。」一生はいくばくでもない。だが、たとい仏祖の言葉を学なぶことわずか二三句であろうとも、その語句が表現しているのは仏祖そのものの表現であるはずである。なんとなれば、仏祖は身心がひとつであるから、その吐いた一句両句も、すべてみな仏祖のあたたかい血のかよう身心そのものである。したがって、それらの仏祖の語句をわが身心をもって学びとるならば、それはかの仏祖の身心がきたってわが身心を表現しているのである。そして、まさにその会得なる時、その時には今度は、かの仏祖のことばがわが身心を表現しているのである。(道元:正法眼蔵・行持下)