「無理会と理会について」大宗国には一群の杜撰のやからどもが運びっていて、いまの「東山水上行」の話や南泉の「鎌子」の話などは無理会話というものだという。その意味は、もろもろの思惟にかかわる語話は、仏祖の禅語というものではなく、理解のできない話こそ仏祖の語話だというのである。先徳の手段がたいてい煩わしき言辞を離れて、ずばりとした句を持ってするのは、それは無理会だからであるというのである。そのように言う輩は、いまだかって正師にまみえたこともなく仏法をまなぶ眼もなくいうに足りない小さな愚か者である。汝らがいうところの無理会話とは汝らにのみ理解できないのであって仏祖は決して そうではない。汝らに理解できないからとて、仏祖の理路はまなばねばならないのである。もし畢竟するところ理解できないものならば、汝が言うところの「理会」ということもありえないのである。思惟は言語であることを知らないのであり、言語が思惟をつらぬいていることを知らないのである。彼らのいう「無理会」とは、一つの邪計にすぎないのである。(道元:正法眼蔵・山水経)