「仏いわく「一切の諸法は、畢竟して解脱にして、住するところあること無し」つまり、自由にして繫縛(けばく)されることなくとも、もろもろの物は存在している。それなのに人が水を見るときには、ただ流れて止まらずとのみ見るばかりである。その流れ方にもさまざまあって、人の見るところは、その部分的な見方に過ぎない。すなわち、地を流れ、空を流れ、上に向かって流れ、下に向かって流れる。里にも流れ、淵にも流れる。のぼっては雲をなし、下っては淵をなす。(道元:正法眼蔵・山水経)