文中子の言葉「水の道は天にのぼって雨露となり、地に下っては江河となる」俗世間の人でもこのように言っているのである。仏祖の弟子と称する人々が、俗人よりも無知であっては、なによりも恥ずかしいことである。その言葉の意味は、水のゆくところは水のよく知っているかどうかにかかわらず、水として働いているのである。「天にのぼりて雨露となる」といっているいように水はどのように上空・無限の上方へものぼって雨露となるべきことを知るべきである。雨露はその世界にしたがって様々である。水のいたらぬところがあるというのは、小乗のやからのいうことであり、あるいは外道の間違った教えである。水は火焔のなかにも存し、思惟・思索・分析のなかにもあり、覚知する仏性のなかにも到るのである。(道元:正法眼蔵・山水経)