「地に下っては江河となる。」それは、水が地に下る時には、江河をなすというのである。江河の精は、よく賢人となるという。いま凡庸愚昧の人々の思うところは、水は必ずや江河海川にあると思っている。だがそうではなくて、水があるから河海をなしているのである。つまり、河海でないところにも水はあるのであって、水が地に下ったときに河や海ができるのである。また、水が河海をなしているところだからそこには世界はありえない、仏土はありえないと学んではならない。一滴の水のなかも無量の仏国土が形成される。だから仏土のなかに水があるのでもなく、水のなかに仏土があるのでもない。水の存するところは、すでに過去・現在・未来にかかわらず、また、いずれの世界にもかかわらない。だからして水はいかにして成るかの公案もある。かくて仏祖のいたるところには、必ず水がいたり、水のいたるところには、必ず仏祖が現れる。それによって仏祖は必ず水をとりあげて、これを身心となし、これを思索の糧とする。だから、水は上にのぼらないなどとは、内外の文献にもみえない。水の道は上下に通じ縦横に通達するなり。(道元:正法眼蔵・山水経)