「嗣法には必ず嗣書なるものがなくてはならない」この諸仏に見(まみ)えたてまって仏の法嗣となるということは、これでこそ仏々相嗣の仏道だというよう。しかるに、この仏道においては、法を嗣ぐにあたってはかならず嗣書なるものがある。もし嗣法ということがなかったならば自然外道である。もし仏道に嗣法を定めることがなかったならば、どうして今日まで続くことができよう。だからして、仏が仏となるときには、かならず仏が仏をつぐ嗣書があり、それを頂戴するのである。この諸仏に奉覲(ぶごん)して、仏嗣を成就せん。すなわち仏仏の仏道にてあるべし。この仏道かならず嗣法するとき、さだめて嗣書あり、もし嗣法なきは天然外道(全ては自然二師手成るものとの主張を有する思想家の一群)なり。仏道もし嗣法を決定するにあらずよりは、いかでか今日にいたらん。これによりて仏仏なるには、さだめて仏嗣仏の嗣書あるなり。仏嗣仏の嗣書をうるなり。)(道元:正法眼蔵・嗣書)