「白毫相の光り」あるときには文殊師利仏をして語らしめて、大海なる仏土というは、仏たちの眼よりみれば、かくの如くであると開示している。またあるときには、釈迦牟尼仏がこの世に出現して「ただわれこの相を知る。十方の仏も又然り」と説く。それはとりも直さず「われ及び十方の仏、すなわち能くこのことを知る」とて、人々をして悟りに入らしめたいと思ってのことである。あるときには普賢菩薩が来って、法華の転ずるもろもろの不思議を顕示し、深大久遠なる仏智をこの世界に流布せしめる。そこには、様々の草木の生うる大地があり、それをよく潤す天雨があり、それと知ることもできぬところにも、法華の転ずるところはあまねく及ぶのである。だがその普賢菩薩の仕事が終わらないうちに、霊鷲山の大会がはじまる。普賢がかの仏の国からこの世界に往来するのを見て、釈尊はそれを白毫相(仏の三十に相の一つであって、眉間の白毫)の光であると証したもう。(道元:正法眼蔵・法華転法華)