法華転について「心が迷えば法華に転ぜられる。」ということは、心の迷いである。「心の迷い」すなわち法華転である。その根本は、心の迷いによって万象に執われ、執愛するから万象の一切が煩悩の対象となるのである。万象が心の迷いであっても、そのあるがままの相は法華に転ぜられているのである。真理の現象としての山川草木、日月星辰んどあらゆるものごととして転開されるのである。そのことは、歓びぶべきことでもなく、また期待すべきことでもなく、あるいは、得るでもなく、来るでもない。それにもかかわらず、法華の転ずるところは、二もなく三もなくただ一仏乗(唯一の真理、無上の仏法)あるのみである。つまり、あのがままの相の法華であるから、転ずるも転ぜられるも、ただ一仏乗であり、ただ一大事である。ただただ赤心の片々たるのみである。だからして、心の迷いもまた恨むことはない。汝のなすところは、そのまま菩薩たちもそのようにして諸仏にまみえたのである。開示することも悟入するもまたすべて法華の転ずるところである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)