「一心に仏を見んと欲す」その見仏とは自分を仏見るのか。また他に仏があるのを見ることなのか。釈迦牟尼仏はかって、分身として成道したこともあり、全身をもって成道したこともある。また、「倶に霊鷲山に出むず」というは、みずから心迷を惜しまないからである。あるいは、「常にここに住して法を説く」との開示があり、方便にして涅槃を現ず」との悟入がある。「近しといえども見ず」というがそれもわが一心のゆえであることを信ぜぬものものはあるまい。まことにこの土は「天人常に充満」するところ、すなわち、釈迦牟尼仏・毘盧遮那仏の国土にして、常寂光土にほかならない。われらはおのずから四土を具するというが、詮ずるところは、生仏一如の仏土に住するのである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)