微塵を知るものは法界を知り、法界を証する者は微塵を証する」諸仏はみずから法界を証して、われらには証を与えないわけではない。その説法は、「初めも中も終わりも善き」がゆえである。したがって、いまもその証はあるがままの相である。驚き怖るるもまたあるがままにならぬはない。ただ異なるところは、仏はその知見をもって微塵を見、微塵に安住するのである。法界に坐しても広いきにあらず、微塵に坐しても狭いとはしないのである。その故は、安住せずしては、坐することがないからである。安住すれば広き狭きに驚くことがないのである。それは法華の実体とそのはたらきを究め尽くしているからである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)
{微塵」はこの世界の最小の単位である。「法界}はこの世界のもろもろの存在を総じていうことばにして、この世界の最大の単位である。その間に、一即多、生仏不二の趣がおのずから存することが汲みとらねばならない。)(初中後善;もと仏陀の説いた説法の理想をいうことぱであるが、その理想のゆえに無二、または無三なる一乗の法のなることがこめられている。)一乗:一切衆生をしてことごとく成仏せしめる教法)