「開示もし法華が悟入の教説」開示悟入のときくならば、法華経の「衆生をして仏の知見を開示悟入せしめんと欲す」と受け取るがよい。                                        法華が「仏の知見を聞く」と転じたならば、それは仏を「仏の知見を示す」とうけとるがよい。     法華が「仏の知見を悟る」と転じたならば、それは「仏の知見に入る」とならうがよい。        法華が「仏の知見を示す」と転ずるならば゛仏の知見を悟る」と受領するがよい。           そのように法華の転ずる開示悟入にもいろいろの考えがあろう。すべて諸仏如来の実現したまえる知見もこの広大無辺なる法華教の転ずるところである。あるいは、成仏の予言もまた自己が仏の知見を聞くことに他ならず、決して他人にあたえるものではない。それがとりも直さず、「心迷えば法華に転ぜられる」ということである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)