「色は空である」色(ものごと生死去来の存在)は即ち空(自我の存在と不変的存在を否定する)であるという意味で「法華を転ずる」ということである。そうなると宇宙のあらゆるものごとは、若退(滅)とか若出(生)とかいうように、差別対立して考えるものではない。空即是色とみるとき、諸法実相として真理として、去来が真の相であって、生きているとか、死んでゆくことはない。絶対なる事実である。「法華を転ずる」ことである。生死の事実を自己の親友(しんぬ)の上でいうならば、自己に対しての親友であり、相手からも親友の自己である。自他は親友として自他の対立を超えている。経典のなかに親友の友情、礼儀、勤めは、お互いに忘れることができないから、唯一つしかない髻(もとどり)の中に隠していた珠を親友に与えるとか、又衣の中に秘めていた珠を親友に与えるとかそのようなことが記されている。このことを能く究め尽くすべきである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

「若退若出 無有生死」は「法華経・如来寿量品」の句である。仏は時にこの世にいでて、時に滅度をとる。それは決して単なる生死弟子乃というのである。「親友」仏が衆生の親友なりと語る下りは「法華経」「五百弟子品」にみえている。「髻珠」は法華経の「安楽行品」にみえる。「衣珠」同じく「五百弟子品」にみえる。