霊山のほとけ、塔中へ証入するには、すなわち霊山の依正ながら、転法華入りするなり。塔中のほとけ、霊山に涌出するには、古仏土ながら、久滅度ながら、涌出するなり。 涌出も転入も凡夫二乗にならわざれ、転法華を学すべし。久滅土は、仏上にそなわれる証荘厳なり。塔中と仏前と法塔と虚空と霊山にあらず、半段にあらず、全界にあらず。最法位のみにかかはれず、非思量なるのみなり。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

「霊山の仏が塔の中にはいるには、全て霊山のすがたがそのままにして入るのである。塔の中の仏が霊山にくだるには、古仏の仏土において久しき昔に滅土したまえるその姿のままにくだる。下るも入るも、凡夫や小乗のやからにならって考えてはならない。ただ転法華と学がよい。久しき昔の滅土というは、ただ古仏にそなわ修飾のみである。塔中といい、仏前といい、宝塔といい虚空というのは、霊山でもなく、法界でもなく、その半分でもない。その全でももない。ただそれは法のありようであり存在の法則である。それは抽象的であってただ直感によさて把握すべきもので具体的対象によって類推する人間悟性の思量分別をもさては到達しがたいものである。