観音菩薩のように、あるときは仏心を現じて教化し説法し、あるときは、衆生の身を現じて教化し説法するというように「法華を転ずる」時もあるのである。極悪人の提婆達多のような者には、提婆のような悪人に身を現じて教化説法するという「法華を転ずる」こともある。慢心して法華の説法の道場から退場する者に対して、「それもよかろう」といわれた釈尊のことばのように法華を転ずる場合もある。その時退場しない者たちは、釈尊を仰いで合掌礼拝して待つこととなり、その時間は六十小劫という無限に長い間といわれるが必ず長い時間と思ってはならない。心に待つ時間の尺度をはかって、かりに無量劫などというけれども、まことは仏智は測ることができないのである。待つという一心を仏智でいえばどのくらいかなど、とてもいえるものではない。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

原文「或現仏身、而為説法、或現此身、而為説法をなる転法華あり。或現菩提達多(だいばった)なる転法華あり、或現退亦佳矣なる転法華あり。合掌し瞻仰(せんごう)待つ、かならず六十小劫とはかることなかれ。一心待(いしんたい)の量をつづめて、しばらくいく無量劫といふとも、なおこれ不能測仏智なり。待なる一心、いく仏智の量とかせん。