「中国にこの教典が伝えられてよりこのかたすでに数百年、その間には注解義約をつくる者も多く、またこの教によってすぐれた導師となった者もあるけれども、いま、われらの高祖僧谿慧能禅師のように、法華の真髄たる「法華転」「転法華」の宗旨を説けるものはない。いま「心迷法華転」「心悟転法華」それを聞き、その真髄に遇うことをえたのは、まさに古仏(釈迦)の古仏(釈迦)に遇うを見るのであり、これこそ古仏の仏士というものであろう。歓ぶがよい。劫より劫(過去から未来)にいたるも法華である。昼より夜にいたるも法華である。法華は劫より劫にいたるがゆえであり、昼も夜もすべて法華であるがゆえである。たとい自ら心を強くしても、すべてそれが法華である。すべてがあるがままなるが珍法であり、光明であり、仏智の行ぜられるところつまり修行道場である。まことに広大にして深遠(じんおん)である。心迷えば法華が転ずるのである。さらにいえば、これこそ法華が法華を転ずるのである。「心迷えば法華に転じられ、心悟れば法華を転ずる」と究尽することよくかくのごとくなれば、「法華が法華を転ずる」と諦観することである。つまり自己がそのように供養し、恭敬し、尊重し、賛嘆するならば、それがまさしく法華これ法華というところである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

原文「おおよそ震旦にこの経つたはれ、転法華してこのかた数百歳、あるいは疏釈(しょしゃく)をつくるともがら、ままにしげし、またこの経によりて、上人(じょうにん)の法をうるもあれども、いまわれらが高祖曹谿古仏のごとく、法華転の宗旨つかうあらず。いくこれをきき、いまこれにあふ。古仏の古仏にあふにあへり、古仏土にあらざらんや。よろこぶべし。劫より劫にいたるも法華なり。昼より夜るにいたるも法華なり。法華これ従劫至劫(じゅうごうしごう)なるがゆゑに。法華これ乃昼乃夜(ないちゅうないや)なるがゆゑに。たとひ自身心を強弱すとも、さらにこれ法華なり。あらゆる如是は珍法なり。光明なり。道場なり。広大深遠なり、深大久遠なり。心迷法華転なり、心悟転法華なる。実にこれ法華転法華なり。心迷法華転、心悟転法華。究尽能如是、法華転法華。鎌のごとく供養恭敬、尊重賛嘆する。法華是法華なるべし。」

まとめ 道元の法華という言葉は極めて広大無辺である。それはただ「法華経」のことのみではない。この世界のおのずからの展開がそれであり、また仏の教化のいとなみのことごとくをこめて「法華これ法華なるべし」の結語がかたられているのである。