「慧達禅人に授く」「いまのの法華は、またかならず花開いてその果を結ぶであろう。それは釈迦の法華でもない。諸仏の法華でもない。法華のまさしき法華である。是までの法華も、そのあるがままの姿は知られなかったであろう。だが、いまよりのちの法華は、さらに気付かぬうちに現れるであろう。これまでに出る息があり入る息があった。これからも出る息入る息である。これまことに不思議な法華として頂戴するがよい。(道元:正法眼蔵・法華転法華)
原本「これをかきて慧達禅人にさずく。これ、出家修道を歓喜するなり。ただ鬢髪(びんぱつ)をそる、なほ好事なり。かみをそりまたかみをそる、これ真出家児なり。今日の出家は、従来の転法華の如是力の如是果報なり。いまの法華、かならず法華の法華果あらん。釈迦の法華にあらず、諸仏の法華にあらず、法華の法華なり。ひごろの転法華は、如是相も不覚不知にかかれり。しかあれども、いまの法華更に不識不会にあらはる。昔時も出息入息なり、今時も出息入息なり。これを妙難思の法華と保任すべし。