釈尊以来の諸仏はこの心の参究のため、身命をかけて参禅修行によって究明し、心不可得の道理を究めてきたのである。もし、この仏祖による参禅修行がおこなわれなかったなら、問うこともなく、語ることもなくまた知ることもなかったのである。それは、経師・論師のやからや、小乗のたぐいなどの、夢にもいまだ見ざるところである。(道元:正法眼蔵・心不可得)
原文「仏祖の入室よりこのかた、心不可得を会取す。いまだ仏祖の入室あらざれば、心不可得の門取なし、道著なし、見聞せざるなり。経師・論師(きょうじ・ろんじ)のやから、声聞・縁覚のたぐい、夢也未見在(むやみけんざい)なり。