「画に書いた餅は、飢えを止めることはできない」徳山宣鑑禅師は、以前に金剛般若経を理解したと、自分のことを周金剛王と称し、とに青龍寺の道氤(どういん)の著わした金剛般若経の解釈書を通じていると称していた。さらに自ら十二荷の書籍を撰集し、肩を比する説教者はいなかったほどである。しかしながらかれは文字ばかり知る僧侶の末流であった。あるとき、現在、南方に最高の正伝の仏道が行われていることを聞いて嫉妬の怒りをおさえることができず、仏典の解釈書を携えて山河を越えて南方に旅した。途中、龍譚崇信禅師の道場で参禅の集会があることを聞いてその道場に参じようとし、途中路傍で休息した。(道元:正法眼蔵・心不可得)
原本「いはゆる徳山宣鑑禅師、そのかみ金剛般若経をあきらめたりと自称す。あるいは周金剛王と自称す。ことに清竜疏(せいりゅうしょ)をよくせりと称す。さらに十二担の書籍を撰集せり。斎肩(さいけん)の講者なきがごとし。しかあれども、文字法師の末流なり。あるとき、南方に嫡嫡相承の無上仏法あることをききて、いきどうりたえず、経書をたづさえて山川をわたりゆく。ちなみに龍譚の信禅師の会にあへり。かの会に投ぜんとおもむく中路に歇息せり。」