「休憩中一人の老婆がやってきた」徳山はその老婆に対し問うた。「あんたは何をする人か」老婆はこたえた。「わたしは餅売りの巾じ婆じゃ」徳山はいった。「では、わたしに餅を売ってくれないか」老婆はいった。「和尚は餅を買うてどうなさる」徳山は言った。「餅を買って点心にしたい」老婆は言った。「和尚はだいぶ荷物を持っておられるが、それは何んですか」徳山は言った。「知らないか。わしは周金剛王といわれる。「金剛経の学者で金剛経のことなら何でも死って居る知っている。こ荷物は、その荷物は、金剛経の注釈書なのだ」老婆はいった「では一つ問いたいことがある。いいですか」徳山は言った。「いいとも何でも問いなさい」老婆は言った。「わたしは、あるとき金剛経を聞いたことがある。そのなかに、そのなかに、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得とふりました。いま和尚は餅を買って、いずれの心に点じようとなさるのか。和尚が見事に答えたら餅を売りましょう。答えができないなら餅を売るわけにはゆきません。」徳山はただ茫然として答るすべをしらなかった。そこで老婆は去った。数百巻の注釈 書の主、数十年に亘って研究ししてきた学者がわずんかに老婆の問いに遇って、たちまちに窮して答うるところを知らなかったとはとは。それは正師にまみえ、正師を相承して、正師にまみえ、正法を聴いた者と、正師にまみえず、正法を聴かない者とでは、そこには遥かな違いがあって、こんなことともなるのである。徳山はその時はじめて、画に描いた餅は飢えを充たすことができないとを思い知り、ついに龍譚に参じてその法を嗣いだという。(道元:正法眼蔵・心不可得)