「徳山と老婆との問答の評価」いま大宗国の雲水達は、ただいたずらに、徳山が答え得なかったことをわらい、老婆の聡明なることを讃えるがそれはまったく心細い愚かしいことである。なぜならば、老婆を疑う理由もないわけではないからである。その時、もし徳山がこたえることができなかったならば、老婆はどうして徳山に自分が解き明かしてやろうといわなかさたのか。老婆が徳山にかわって説き、そのことばが道理にかなっておれば、それではじめて老婆がほんとにできた人だと言うことも明らかとなる。だが、老婆には問いの言葉があったが、説くことばはなかった。むかしから、まだ一語を説いたこともない人を、本物であるとしたためしはない。むやみに自称してしても役にたたぬことは、以前の徳山でよくわかろう。また、いまだいうところなき者を本物とは許し難いことは、いまの老婆によってしるがよい。(道元:正法眼蔵・心不可得)

原本「現在大宗国に雲衲霞袂、いたづらに徳山の対不得をわらひ、婆子が霊利なることをほむるは、いとはかなかるべし、おろかなるなり。そのゆゑは、いま婆子を疑著する。ゆゑなきにあらず、いはゆる、そのちなみ、徳山道不得ならんに、婆子なんぞ徳山にむかうていはざる。和尚いま道不得なり、さらに老婆にとふべし、老婆かへりて和尚のためにいふべし。かくのごとくいひて、徳山の問いをえて、徳山にむかうていふこと道是ならば、婆子まことにその人なりといふことあらはるべし。問著たとひありとも、いまだ道処あらず。むかしよりいまだ一語をも道著せざるを、その人といふこと、いまだあらず。いたずらなる自称の終始、その益なき、徳山のむかしにてみるべし。いま道処なきもの、をゆるすべかざること。婆子にてしるべし。