「仏身とは」いわゆる仏身とは三世である。心と三世とは兎と毛ほどのへだたりもないのであるが、また、相去り相離るることを論ずるならば、十万八千里なりといってもなお及ばないであろう。過去心とはなにかと問うものがあれば、彼に向かっていうがよい。「これ不可得」と。現在心とはんにかと問うものがあけば答えていうがよい、「これ不可得」と。また未来心とは何ぞと問うものがあったならば、また「これ不可得」と答えるのがよい。そのいうところの意味は、心をかりに不可得と名とづける、そのような心があると言うのではない。ただ、不可得というのである。また、心は得られないというのでもなく、ただ不可得というのである。あるいは心は得ることができるというのでもなく、ただ一途に不可得というのである。また過去心不可得とはどういうことかと問うものがあれらば、生死去来と答えるがよい。現在心不可得とはどんなことかといわば、生死去来というがよい。あるいは未来心不可得とはいかにととわば、また生死去来とというかせよい。いったい、牆壁瓦礫にほかならぬのが仏心であって三世の諸仏ははいずれもそれを不可得であると証(さと)っている。また、仏心にほかならぬ牆壁瓦礫があらば、三世の諸仏はそれをも不可得である都証ている。ましてや山河大地にほかならないものは、不可得そのものである。草木風水にして不可得なるもの、それが心であるといってもよい。あるいは、「まさに住する所なくしてその心生ずという。それもまた不可得である。あるいは、また、十方の諸仏は一代にして八万の法門を説くという。不可得の心(しん)とはかかるものなのである。(道元:正法眼蔵・不可得(後))」という
原文「いはゆる、仏心はこれ三世なり。心と三世とあひへだたること毫釐(ごうり)にあらずといへども、あひはなれあひさることを論ずるには、則ち十万八千よりもあまれる深遠なり。いかにあらんかこれ過去心といはば、かれにむかひていふべし、これ不可得と。いかにあらんかこれ現在心といはば、かれにむかひていふべし、これ不可得と。如何にあらかこれ未来心といはば、かれにむかひていふべし、これ不可得と。いはくのこころは、心(しん)をしばらく不可得となずくる心ありとはいはず、しばらく不可得なりといふ。こころうべからずとはいはず、ひとへに不可得といふ。こころうべしとはいはず、ひとへに不可得といふなり。またいかなるか過去心不可得といはば、生死去来といふべし。すかなるか現在心不可得といはば、生死去来といふべし。いかなるか未来心不可得といはば、生死去来といふべし。おほよそ牆壁瓦礫(しようへきがりゃく)にてある仏心あり。三世諸仏、ともにこれを不可得にてありと証す。仏心にてある牆壁瓦礫のみあり。諸仏三世これを不可得なりと証す。いはんや山河大地にてある不可得のみづからにてあるなり。草木風水なる不可得のすなはち心なるあり。また応無所住(おうむしょうじゅ)、而生其心(にしようこしん)の不可得なるあり。また十万諸仏の一代の代にて八万法門をとく。不可得の心、それかくのごとし。