「続き」このようなことは、知らなければばならない。聞かなければおかしいと思うのであろう。仏祖と三蔵とはまるでちがうのである。天地の差があるのである。仏祖は仏法が判っておる。三蔵はまだそれを知らない。いったい、三蔵は在俗の者でもなることができる。たとえば、文字の道に通じたものなどもそうである。だがしかし、ひろくインドや中国の言語に通ずるのみならず、他心通までも修得していても、こと仏法の身心にいたっては、なお夢にも知らないのである。だから、仏祖の位を証得している国師のまえにでると、たちまち看破せられたこととなる。(道元:正法眼蔵:心不可得(後))
原文「かくのごとくのことしらざればあやしみぬべし。仏祖と三蔵とひとしかるべからず、天地懸隔なり。仏祖は仏法をあきらめてあり、まことにさんざ得は、在俗も三蔵なることあり、たとへば文華にところをえたらんがごとし。しかあれば、ひろく竺乾の言音をあきらめてあるのみにあらず、他心通をも修得せりといえども、仏道の身心におきては、ゆめにもいまだみざるゆえに、仏祖の位に証せる国師にまみゆるには、すにわち勘波せらるるなり。」