三蔵蔵の野狐の言辞「三蔵は全ての存在は心であることが解らないから、ただ野狐のわざを弄するのみであった。だから、はじめの両度の問いにも、国師の心がわからず、国師の心に通うことができなかった。ただいたずらに西川だの天津だの、あるいは競艇だの猿廻しなどと、人をたばかる野狐の技を弄するばかりであった。どうして国師がわかるものか。また、何処に国師いるのか判ろうはずもなかった。「わたしは今何処ににおるか」と国師が三度まで問うても、そのことばの意味もわからなかった。もし、判ったならば、国師に問うべきであった。聞く耳がないからすれ違ってしまうのである。もし三蔵が仏法をまなんだことがあったならば、国師のことばも解ったであろうし、国師の身心を見ることもできたであろう。だが、日頃から仏法を学んでいなかったので、人天の導師にめぐりあいながら、いたずらに機会を逸してしまった。あわれな、悲しいことである。(道元:正法眼蔵・心不可得(後))
原文「三蔵すでにこれをみず、野狐の精のみなり。しかあれば、以前両度もいまだ国師の心をみず、国師の心に通ずことなし。いたずらなる西川と天津と競渡と猢猻のみにたはぶるる野狐子なり、いかにしてか国師をみん。また国師の在処をみるべからざる道理あきらけし。「老僧いまいずれのところにかある」とみたびとふに、そのことばをきかず、もしきくことあらばたづぬべし、きかざれば蹉過(しゃか)するなり。三蔵もし仏法をならふことありせば、国師のことばをきかまし、国師の身心をみることあらまし。日頃仏法をならわざるがゆゑに、人中・天上の導師にうまれあふといえども、いたづらにすぎぬるなり。あはれむべし、4んかなしむべし。」