「長老の見解に対する批評」この五人の長老達をどうかと思う点は二つある。そり一つは、国師が三蔵を試みる意味を知らないこと。その二つには、国師の身心を知らないことである。まず国師が三蔵を試みる意味を知らないというのはこうである。最初に国師は、「わたしがいま何処におるか、言ってみるがよい」といった。その意味は、一体この三蔵は、仏法を知っている、かもしくは知らないかを諮問しているのであるから、もし三蔵が仏法を聞いたことがあるならば、「わたしはいま何処におるか」と問わられば、それは仏法をならって受け取らねばならない。、仏法にならって受け取るというのは、国師が自分はいまどこにおるかというのを、この辺りか、どの辺りか、あるいは、最高のさとりか、大いなる智慧か、あるいはまた、空にかかっているか、地に立っているのか、草庵にあるのか、涅槃にあるのかと問うているのである。三蔵はその意味を知らないからいたずらに凡夫・小乗の見解をもって答えた。国師は重ねて「言ってみるがよい。いまわたしは何処におるか」と問うた。だが三蔵はまたもや無駄な返答をした。そこで国師が三度かさねて同じ問いを繰り返した時、今度は、三蔵もしばらく考えたいたが、なんの言うところをもしらず、ただ茫然たるのみであった。そこで国師は、叱咤して「この野狐精めが、汝の他心通はいったい何処にあるのじゃ」といった。それでも三蔵はなんのいうところもなかった。
原文「興聖いま五位の尊宿を疑著すること両般あり。一にいはく、国師の三蔵を試験する意趣をしらず。二にはいはく、国師の身心しらず。しばらく国師の三蔵を試験する意趣をしらずといふは、第一番に国師いはく、汝道老僧即今在什麼処と、いふところは、三蔵もし仏法をしれりや、いまだしらずやと諮問するとき、三蔵もし仏法を聴くことあらば、老僧今在什麼処ときくことばを、仏法にならふべきなり。仏法にならふといふは、国師の老僧いまいずれのところにあるといふは、這辺にあるか、那辺にあるか、無上菩提にあるか、般若波羅蜜多にあるか、空にかかれるか、他二たてるか、草庵にあるか、宝所にあるかととふなり。三蔵のこころをしらず、いたずらに凡夫の二乗等の見解をたてまつる。国師かさねてとふ。汝道老僧即今在麼処。ここに三蔵さらにいたすせらのことばをたてまつる。国師かさねてとふ。汝道老僧即今在麼処。とくーきに三蔵ややひさしくあれどもいはず、ここち茫然なり。ちんみに国師すなはち三蔵を叱していはく。這野狐精、他心通在甚麼処。かいふに、三蔵なほいふことなし。