つくづくこの物語をかんがえてみると、長老達はみな、いま国師が三蔵を叱ったのは、前の二度は国師の所在を知ることができたが、三度目には知りえなかったので叱ったのだと思っておる。だが、そうではない。およそ三蔵の野狐にも似たる考えでは、仏法はまったく解っていなてことを叱ったのである。前の二度は知り得たが、三度めは知り得なかったというのではない。叱ったのは、三蔵のすべてを叱ったのである。国師の考えるところはまず、仏法に他進通ということがあるかないかということである。また、他進通ということがあっても、その「他」は仏道における「他」でなくてはならない。その「心」は仏道における心でなくてはならない。また、その「通」も仏道でいうところの通でなくてはならないのに、いま三蔵のいうところは、まったく仏道によるところのものではない。それをどうして仏法ということができようぞと国師は思ったのである。この試験は、たとい三度目にも答え得たからとて、前の二度のようであったならば、それもそれも仏法の道理にあわず、国師の本意にかなうものではないから、やはり叱すべきものであった。三度も問うたのは、もしや三蔵が国師のことばの意味を解することもあろうかと、重ねて問うたのである。((道元:正法眼蔵・心不可得(後))
原文「つらつらこの因縁おもふに、古先ともにおもはくは、いま国師の三蔵を叱すること、前両度は国師の所在を知るといへども第三度しらざるがゆえに叱しするなりと、しかにはあらず。およそ三蔵の野狐の精のみにして、仏法は夢也未見在(むやみけんざい)なることを叱するなり。前両度はしれり、第三度はしらざるとはいはぬなり。叱するは総じて三蔵を叱するなり。国師のこころは、まず仏法を他心通ありやいなやともおもふ。またたとふ他心通といふとも、他も仏道にならふ他を拳すべし、心も仏道なら不心を拳すべし、通も仏道にならふ通を拳すべきに、いま三蔵のいふところは、かって仏道にならふところにあらず、いんかでか仏法といはんと国師は思ふなり。試験すといふは、たとひ第三度いふ処ありとも、前両度のごとくあらば、仏法の道理にあらす゛、国師の本意にあらざれば、叱すべきなり。三度問著するは、三蔵もし国師ことばをきくことやあると、かさねて問著するなり。」