「第二の国師の身心を知らずというは」その国師の身心は三蔵の知りうるところではなく、理解しうるところではないということである。それは十聖・三賢もおよばぬところであるり、補処の菩薩も知りうるところではないのであって、どうして凡夫の三蔵が知ることができようかと、そこの道理をはっきりと思い定めなければならない。それを、国師の身心は三蔵も知りうるところ、お及びえざるところではないと思うのは、自分自身がすでに国師の身心を知らないからである。他心通をえた者には、国師を知ることもできようというならば、小乗の聖者はもっとよく国師を知ることができるか。そんなことはあろうはずがない。小乗の聖者では、とても国師のほとりにも及びがたいのである。今の小乗の人には大乗の経典を読むものも少なくないが、彼らはとても国師の身心を知ることはできない。また仏法の身心は夢にも見ないところである。たとひ大乗の経典を読んでいるようであっても、彼らはまったく小乗の人であると、はっきり知らなければならない。詮ずるところ、国師の身心は神通を修するような徒輩の知りうるところではないのである。国師の身心は、国師自身にも測りがたいのであろう。その故はいかにとならば、その足跡はどこまでいっても仏となることを意図しないから、従って、仏眼もこれを窺い見ることができず、その進退ははるかに所在をこえて、文字や表現のとらえうるところではないのである。(道元:正法眼蔵・心不可得(後))

原文「二には国師の身心をしらずといふは、いはゆる国師の身心は三蔵のしるべきにあらず、通ずべきにあらず、十聖三賢およばず、補処(ふしょ)・等覚(とうかく)のあきらむるにあらず、凡夫三蔵いかでかしとらんと、この道理、あきらかの決定すべし。国師の身心は、三蔵もしるべし、及ぶべしと擬するは、おのれすでに国師の身心をしらざるによりてなり。他心通をえんともがら、国師をしるべしといはば、二乗さらに国師をしるべきか。しかあるべからす。二乗人はたえて国師の辺際におよぶべからざるなり。いま大乗経をよむ二乗人おおし、かれらも国師の身心をしるべからず。また仏法の身心、夢にも見るべからざるなり。たとひ大乗経を読誦するににたれども、またくかれは小乗人なりとあきらかにしるべし。おほよそ国師の身心は、神通修証をうるともがらのしるべきにあらざるなり。国師の身心は、国師なほはかりがたからん。ゆゑはいかん。行履ひさしく作仏を図せず、ゆゑに仏眼も儭(しょ)不見なり。去就はるかに窟窠(かくつ)を脱落せり、籠羅(ろうら)の拘牽(こうけん)すべきにあらざるなり。」