「長老の所見に対する批判」五人の長老たちの所見は、いずれも批判されるべきであっ。趙州は「国師は、三蔵の鼻の孔のうえにいたから見えなかったのだ」といった。それはなんというか、本を明らかにせず、末ばかりをいおうとするから、こんな誤りをするのである。国師がどうして三蔵の鼻の孔にうえにいようか。三蔵は二はまだ鼻の孔などありはしない。 国師と三蔵とはそこで会見したのだから、会ったようにみえるけれども、二人が相近づく道はなかった。明眼をもってそこをよくよく弁えねばならなぬ。        玄沙は「あんまり近かったからだ」といった。大変近かかったことはそうだとしても、それが的に中っているわけではない。いったい、どういうことを近いというのか。なにが近いというのであるか。玄沙はまだ近いということを知らず、近いということを学ばず、仏法にはなおはなはだ遠いのである。(道元:正法眼蔵・心不可得(後))

原文「いま五位の尊宿、ともに勘破すべし。趙州いはく「国師は三蔵の鼻孔上にあるゆゑに見ず」この話、なにといふか。本をあきらめずして末をいふには、かくのごとくあやまりあり。国師いかにしてか三蔵の鼻孔上にあらん、三蔵いまだ鼻孔なし。また国師と三蔵と、あひみるたよりあるにあひにたれども、あひちかみちなし。明眼はまさに弁肯すべし。

玄沙いはく「只為太近」(しいたいきん)まことに太近はさもあらばあれ、あたりにはあたらず、いかなるおか太近といふ、なにおか太近と挙する。玄沙いまだ太近をしらず、太近を参ぜず。仏法におきては遠之遠牟(とおくしてとおし)」