仰山は、はじめの二度は、あれはただ外境にかかわる心のことであったが、そのあとは自受用三昧に入ったから、今度は判らなかったのだという。この人は、小釈迦のほまれが西の方までもひびいているが、これはどうも頂けない。もし相見えるところはかならず外境においてのこととするならば、仏祖の相見すべきところはないであろう。あるいは、成仏の予言なども解ってはいないように思われる。はじめの二度は、三蔵もよく国師の所在を知り得たという。それでは国師の徳がすこしも解ってはいないといわねばならない。
玄沙は、三蔵をなじって「はじめの二度は本当に見たというのか」といった。その一句は、いうべきことを言っておるようであるが、それはどうやら「見れども見ざるがごとし」といおうとしているようである。だから、それも充分ではない。それを聞いて雪竇明覚禅師は、「敗けじゃ、敗けじゃ」と評している。それは玄沙のことばを道理とするとき、そういうべきであって、道理にあらずとするときには、そういうわけにはいかない。(道元:正法眼蔵・心不可得)
原文「仰山いはく、「前両度渉境心、後入自受用三昧、所以不見」これ小釈迦のほまれ西天にたかくひびくといへども、この不是なきにあらす。相見のところはかならず渉境なりといはば、仏祖相見ところなきがごとし、授記作仏の功徳ならはざるににたり。前両度は実に三蔵よく国師の所在をしれりといふ。国師の一毛の功徳をしらずといふべし。
玄沙はの徴にいはく「前両度還見麼」この還見麼の一句、いふべきをいふににたりといへども、見如不見とはいはんとす。ゆゑに是にらず。これをききて、雪竇明覚禅師いはく、「敗也、敗也」これ玄沙の道を道とするとき、しかいふべし。道にあらずとせんとき、しかいふべからす。」