海会守端は「もし国師が三蔵の鼻の孔のうえにいたならば、なんの見えないことがあろうか。それは、国師が三蔵の眼の中にいたことをしらないからだ」といった。それもまた三度目だけを論じているのである。はじめの二度も見ることはできなかった。その呵すべきことを呵していない。いったい国師が鼻の孔のうえにいたのか、眼のなかにいたのか、どうして判るものか。(道元:正法眼蔵・心不可得(後))

海会端いはく「国師若在三蔵鼻孔上、有什麼難見。殊に不知、国師在 三蔵眼晴裏」これまた第三度を論ずるなり。前両度もみざることを呵すべきを呵せず。いかんが国師の鼻孔上にあり、眼晴裏にありともしらん。」