心不可得の参究「ある時一人の僧が国師に問うていった「古仏心とはどのようなものでありましょうか」国師はいった。牆壁瓦礫じゃ」これも不可得である。またある時、ひとりの僧が問うていった。「諸仏のつねなる心とは、どのようなものでありましょうか」国師はいった。「幸いに、わしの参内(さんだい)に出遇ったなあ」これも不可得の心を究明しているのである。またある時、天帝釈が国師に問うていったことがある。「どのようにしたならば、この無常の世界を解脱することができましょうか。」国師はいった。「天神は道を修めて、この無常の世界を解脱するがよろしい。天帝釈はかさねて問うていった。「その道とはどのようなものでありましょうか。国師はいった。「つかのまの心それが道である」天帝釈はいった。「つかのまの心とは、どのようなものでありましょう」国師は手をあげて指さしていった。「これが般若の台(うてな)である。あれが真珠の網である。天帝釈は頭を下げて礼拝した。およそ仏道にあっては、仏祖たちの会座において身心を談ずることがおおい。いずれもそれを学ことは、凡情の思量をもってしては及ばないところである。心不可得ということを思いめぐらしてみるのがよいのである。(道元:正法眼蔵・心不可得(後))

原文「あるとき僧ありて国師にとふ、「いかにあらんかこれ古仏心」国師いはく、「牆壁瓦礫」これも心不可得なり。あるとき、僧ありて国師にとふ、「いかにあらんか諸仏常住心」国師いはく「幸遇老僧参内」これも不可得の心を参究するなり。天帝釈あるとき国師に問ふ、いかにしてか有為を解脱せん」国師いはく「天子修道して有為を解脱すべし」天帝釈かさねてとふ「いかならんかこれ道」国師いはく、「造次心是道」天帝釈しはく、「いかならんかこれ造次心」国師指をもってさしていはく「這箇是般若台、那箇是真珠網」天帝釈礼拝す。おほよそ仏道に身心を談ずること、仏仏祖祖に会におほし。ともにこれを参学せんことは、凡夫賢聖の念慮知覚にあらず。心不可得を参究すべし。」