「伽耶舎多尊者の故事3」「その諸仏の大円鑑が、いまもいうように、伽耶舎多尊者と同時に生まれたという。それも道理のないことはない。けだし、いうところの大円鑑は、この生に属するものでもなく、また他生に属るものでもない。、あるいは、玉をもてなせる鏡でもなく、銅を持ってつくれる鏡でもない。また、肉体の鏡でもなく、骨髄の鏡でもない。さらにいえは、今の偈も、円鑑の説いた偈か、童子の説いた偈か。童子がこの四句の偈を説いたというのも、かつて人に学んだものでもなく、あるいは経巻によって得たものでもなく、乃至はかって善知識によって教えられたものでもない。ただ鏡を手にしてかくは説いたものである。幼いときから鏡に向かうことを常の習いとしたというのみである。生まれながらの智慧というものであろうか。そりれは大円鑑が童子といっしょに生まれたといってよいのか、童子が大円鑑といっしょに生まれたといってよいのか。きっとあとさきもあるのであろう。ともあれ、大円鑑とは、とりもなおさず諸仏の功徳である。その鏡は内にも外にもくもりがないという。それは外に対する内でもなく、内のくもった外のことでもない。面と裏があるのでもなく、その両面がともに見えるのである。心と眼とに相似ている。相似ているというのは、人が人に遇うのである。たとえば、外なるかたちについても、また心があり眼があり、ともに見ることができる。あるいは、いま目のあたりに人のすがた・世のすがたも、ともに内において相似ており、また外において相似ている。かくて、我にあらず、誰にもあらず、互いに相見ているのであり、両方が相似ているのであるのだから、彼も我もといい、我も彼となるのである。(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「すでに諸仏大円鑑たとひむわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり、いはゆるこの大円鑑、この生にに接すべからず、他生に接すべからず。玉鏡にあらす銅にあらず、肉鏡にあらす髄鏡にあらず、円鑑の言偈なるか、童子の説偈なるか、童子の胡の四句の偈をとくことも、買って會人に学習せるにあらず、會或従教巻にあらず、會或従知識にあらず、円鏡をささげてかくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かがみにむかふを常儀とせるのみなり。生知の辨慧あるがごとし。大円鑑の童子と同生せるか。童子の大円鑑と同生せるか。まさに前後生もあるべし。大円鏡はすなわち諸仏の功徳なり。このかがみ、内外にくもりなしといふは、外にまつ内にあらず、内ににくもれる外にあらず。両背あることなし、両箇おなじく得見あり。心と眼あひにたり。相似といふは、人の人にあふなり。たとひ内の形像も、心眼あり、同得見あり。たとひ外の形像も心眼あり、同得見あり。いま現前する依報正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。われにあらず、たれにあらず、これは両人の相見なり、両人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる。」
「正報とは」過去業によつて受けたこの身心のことであり、依報とは、その身心の依りて生きる世界であり、それもまた過業むによって受ける報いであるとする。