「大鑑禅師の明鏡」第三十三祖大鑑慧能は、かって黄梅山の法席にあって修行していたころ、壁に一偈を書して祖師弘忍に呈して、いはく「一切のものごとは本来無一物であるのに、どこに塵垢がつくのであろうか」といわれているのである。この偈の「明鏡非台」の一語は、実に仏道正伝の命脈があるのである。この明鏡非台の偈語を究めつくすべきである。この仏祖の命も修証もみな明鏡自体なのである。明々たる万象のありかたは主観、客観の対立を超えた存在、すなわち普遍的な存在、真理の体験であるから、その明々白々なものは明鏡である。そのため、ものごとのありのままのものを、ありのままに写すというのである。どこにおいても鏡以外はないから、鏡につもらなぬ塵が鏡に残っていようはずがない。かくて知る通い。だからして知るがよい。この世界はけっして「塵の世界」ではないのである。だからして古鏡のおもてである。(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「第三十三祖大鑑慧能禅師、かって黄梅山の法席に功夫せしとき、壁書して祖師に呈する偈にいはく「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処有塵埃」しかあれば、この道取を学取すべし。よの人これを古仏という。 圜悟禅師いはく「稽首曹谿真古仏」しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本来無一物、何処有塵埃なり。明鏡非台、これ命脈あり、功夫すべし。明明みな明鏡なり。かるがゆゑに、明頭来打という。いづれのところにあらざれば、いづれのところなし。いはんやかがみにあらざる一塵の、尽十方界にこれらんや。かがみにあらざる一塵の、かがみにのこらんや。しるべし、尽界は塵刹にあらざるなり、ゆゑに古鏡面なり。」