雪峰の古鏡論「雪峰山の真覚大師は、ある時、衆に示していった。「このことを会得しようとするならば、わが内は一面の古鏡によう似ておる。胡人がくれば胡人がうつり、漢人がくれば漢人がうつる」すると玄沙師備がすすみでて、問うていった。「ではこっそり明鏡のきたるに遇ったら、どういうことになるでしょう」雪峰はいった。「胡人も漢人もともに、隠れるよ」玄沙はいった。「わたしはそうは思いません」雪峰はいった。「しからば、そなたはどう思う」玄沙はいった。「では、和尚から問うていただきたい」雪峰は問うていった。「では、にわかに明鏡の来るに遇った時はいかに」玄沙がいった。「木端微塵でございる」まず雪峰が「このこと」といったのは、いったい何のことかと考えてみなければならない。だが、いまのところ、これをしばらく雪峰の古鏡論として学ぶこととしょう。まず「一面の古鏡のごとし」という。一面とは、まったく際限がなく、また、内も外もないことである。そのような盤のうえを一つの球がはしる。それが自己なのである。また「胡人がくれば胡人が現ずる」という。胡人というは、一人の赤髭の異邦人である。また、「漢人が来れば漢人が現ずる」という。漢人とは、開闢のいにしえから、彼の国土に生い育ってきた人である。いま雪峰のいうところでは、古鏡の功徳としてその漢人が現れるという。いまの漢人はその漢人ではないから、すなわち漢人が現ずるというのである。さらに、雪峰は「胡人も漢人も、ともに隠れる」という。それは、さらにいうならば、「鏡そのものも隠れる」というところであろう。そこで、玄沙は、いや木端微塵に砕けるのだといった。いうなれば、そんなところであろうけれども、そで今度は、玄沙が責められる番だ。では、「わしにその破片を還してくれ」とか、あるいは、「何でわしに明鏡をかえしてくれないのか」と。

原文「雪峰真覚大師、あるとき衆にしめしていはく、「要会此事、我這裏如一面古鏡相似」「胡来胡現、漢来漢人現」時玄沙出問、「忽遇明鏡来時如何」師云、「胡漢倶隠」玄沙曰「某甲即不然」峰云「你作麼生」玄沙云「請和尚問」峰云「忽遇明鏡来時如何」玄沙云「百雑砕」しばらく雪峰道の此といふは、是什麼事と参学すべし。しばらく雪峰の古鏡ならひみるべし。如一面古鏡道は、際限ながく断じて、内外さらにあらざるなり。一珠走盤の自己なり。いま胡来胡現は、一隻の赤髭なり。漢来漢現は、この鑑は、混沌よりこのかた、盤古よりのち、三才・五才の現成せるといひきたれるに、いま雪峰の道には、故居得野功徳の漢現せり。いまの漢は、漢にあらざるがゆゑに、則ち漢現なり。いま雪峰の胡漢倶隠、さらにいふべし、鏡也自隠なるべし。玄沙道の百雑砕は、道也須是恁麼道、なりとも、比来責你、還吾砕片来、如何還我明鏡来なり。」