「皇帝の鏡のことなど3」「人を鏡とするといえば、博覧の人に古今のことを問えば、それで聖人・賢者の用いるべきか捨つるべきを知ることもできる。たとえば、唐の太宗が魏徴をえ、房玄齢をえたのがそれであると思うのであろう。だが、それをそのように心得るのは、太宗が人を鏡とするという意味ではないのである。人を鏡とするというのは、鏡を鏡とすることであり、自己を鏡とすることであり、天地の動きを鏡とするのであり、人の道のありようを鏡とするのである。人間の去来するさまをみると、まさに「来るに迹なく、去るに方なし」である。それが、人を鏡とする道理というものである。(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「人を鏡とするとききては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用舎をしりぬべし、たとへば魏徴をえしがごとく、房玄齢をえしがごとしとおもふ。これをかくのごとく会取するは、太宗の人を鏡とすると道取する道理にはあらざるなり。人を鏡とすといふは、鏡を鏡とするなり、己を鏡とするなり。五行を鏡とるなり、五常を鏡とするなり、人物の去来を視るに、来無迹去無方を人鏡の道理といふ。」

五行とは、中国の古来の説である。天地に流行し万物を形成する五つの元素(木・火・土・金・水)があり、一切の現象をさの調和と相剋によって説明する。

五常とは、ひとのつねに守るべき五の道・儒教の教え・あるいは仁・義・礼・智・信をあげ、あるいは父・母・兄・弟・子のそれぞれにまもるべきものとして、義・慈・友・恭・孝をあげる。