「皇帝の鏡など雪峰の宗旨」「さきに雪峰がいうところの意をもってするならば、新羅がくればしいらが現ずるのであり、日本がくれば日本が現れるといってもよいし、あるいは、天来れば天あらわれ、人来たればひとあらわれるといってもよいであろう。だが、その来現をそのように学んだからといって、なお、われらは、その現がいずれが本であり、いずれが末であるかを知っているわけではない。ただその現れるのを見るのみであって、かならずしもその来現の真相を知っているのでも、よく理解しているわけでもない。そのいう意味は、胡人がくれば胡人が現れるというが、胡人が来るのはただ一筋に胡人が来るのであり、胡人が現れるのもまた一途に胡人が現れるのであって、べつに現のための来といっったことではない。古鏡は古鏡であるけれども、またそこのところを思い学ばねばならない。(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「雪峰の宗旨は、新羅来新羅現、日本来日本現ともいふべし。天来天現、人来人現ともいふべし。現来をかくのごとく参学すといふとも、その現いまわれらが本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなりかならずしも来現をそれ知なり、それ会なりと学すべきにあら ざるなり。いまいふ宗旨は、胡来は胡現なりといふか。胡来は一条の胡来にて、胡現は一条の胡現なるべし。現のための来にあらず。古鏡たとひ古鏡なりとも、この参学あるべきなり。」