「玄沙のことばの吟味」古鏡はたとえば、「胡人が来れば胡人が現じ、漢人がくれば漢人が現れる」てあったけれども、いま明鏡がくるというは、おのづから明鏡がくるのであるから、その時には、当然、古鏡に現れていた胡人も漢人も、ともに隠れるのである。とすれば、雪峰のいうところにも、一面の古鏡があり、、一面の明鏡があるのであって、まさに明鏡のきたるその時にも、一面の明鏡があるのであって、まさに明鏡のきたるその時にも、古鏡に現ずる胡人・漢人にははなんの差し障りもないことが、はっきりしているのである。いったい、いまもいう古鏡に胡人・漢人が来たり現ずるというのは、古鏡のうえに来たり現ずるというのでもなく、古鏡のうちに来たり現ずるというのでもない。その言い方を行く聴くがよい。もしも、胡人・漢人が来たり現れる時には、古鏡が胡人・漢人を来現せしめるのだといったり、あるいは、胡人・漢人がともに隠れた時にも、古鏡はなお存在しているのだといったりしたのでは、まったく来も現も解っていないのであって、錯乱というもなお及ばざるところである。(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆえに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり。しかあれば、雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。正当明鏡来のとき、古鏡現の胡漢を罫礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。いま道取する古鏡の胡来胡現、漢来漢現は、古鏡上に来現すといはず、古鏡裏に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、この道を聴取すべし。胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せいむるなり。胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるなり。」