「玄沙のことばの吟味」さて、そこで玄沙は「わたしはそう思わない」といった。雪峰は、「しからば、そなたはどう思うか」といった。すると玄沙は、「では、和尚のほうから問うていただきたい」といった。その玄沙のことばを取り間違えてはならない。いま和尚が問い、玄沙問うてくださいという。それは師と弟子との呼吸がびたりと合っていなくては、とてもそうはまいらぬところである。すでに和尚に請うて問いたまえという。その時、その人はすでにその問題を解しているはずである。ひとたび和尚から問いが打ち出されれば、もはや逃げ隠れることはできない。雪峰はいった。「では、にわかに明鏡の来るに逢った時にはいかに」この問いに、いま師と弟子とが相ともに学びいたる一つの古鏡について問うのである。玄沙は答えていった。「木端微塵でござる」そのいうところは、千々に砕けるというところである。つまり、にわかに明鏡が現れてきた時には、それは木端微塵となるのである。千々に砕けることを会得するのが明鏡であろう。その明鏡を表現するとなれば、千々に砕けるとなるのであるから、砕けるところに明鏡があるのである。(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「ときに玄沙いはく「某甲はすなはちしかあらず」雪峰いはく「なんじ作麼生」。玄沙いはく、請すらくは和尚いふべし」。いま玄沙のいふ請和尚問のことば、いたずらに忽ち蹉過すべからず。いはゆる和尚問来なる、和尚問の請なる、父子の投機にあらずんば、為甚如此なり。すでに請和尚とうならん時節は、南も駆遇う明鏡来時如何」この問処は、父子ともに参究する一条の古鏡なり。玄沙いはく、「百雑砕」この道取は、百千万二雑砕するとなり。いはゆる忽遇明鏡来時は、百雑砕を参得せんは、明鏡なるべし。明鏡を道取ならしむるに、百雑砕なるべきがゆゑに、雑砕の描かれるところ明鏡なり。