「雪峰真覚大師と三聖院慧然禅師とが外出したとき、一群の猿を見 た。雪峰がいうに「この猿どもは、それぞれ一面の古鏡を背負っている」と。この雪峰の語をよくよく参学すべきである。雪峰の見た猿とはいかなるものであろうか。このように問いかけてさらに深く探求すべきである。そのために時間がかかることをきにかけてはならない。「猿がそれぞれ一面の古鏡を背負っている」というのは、どういうことか。古鏡といえば、諸仏祖の面ではあるが、古鏡は向上していく場合も古鏡である。その猿がそれぞれの古鏡を背負っているとは、それぞれにさまざまの古鏡をというのではなく、ただ一面の古鏡をである。また、背負うというのは、いうなれば仏の絵像の裏打ちをするようなものである。猿の裏打ちに古鏡を以てするのである。では、どんな糊で裏打ちするのか。ともあれ、こころみにいうなれば猿の裏は古鏡で裏打ちするがよい。では、古鏡の裏打ちは猿でするのか。いや、古鏡の裏は古鏡で裏打ちする。猿のうらは猿で裏打ちする。(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「雪峰真覚大師と三聖院慧然禅師と行次に、ひとむれの彌猿を見る。ちなみに雪峰いはく。「この彌猿おのおの一面の古鏡を背せり」この語をよくよく参学すべし。彌猿というは、さるなり。いかならんか雪峰のみる彌猿」かくのごとく問取してさらに功夫すべし。経劫をかへりみることなかれ。おのおの一面の古鏡を背せりといふは、面面に大面小面にあらず、一面古鏡なり。背すといふは、たとえば絵像の仏のうらをおしつくるを、背すといふなり。彌猿の背を背するに、故居うにて背するなり。使得什麼糊来。こころみにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし。古鏡のうらは彌猿にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。」