「おのおの一面の古鏡を背負うというのは、決してむなしい喩えではない。まさに言い得たるところであろう。とするならば、それは猿か古鏡か結局の所はどちらか、われらは猿であるか、猿でないのか、誰に問えばよいのか。自分が猿であるかどうかは、自分の知るところでもないし、また他人の知るところでもない。自己が自己であるかどうかは、誰も覗い知りうるところではないからである。三聖はいった。「歷劫の昔から無名のものを、なにをもっていま古鏡といのであるか」それは、三聖が、古鏡の古鏡たる所以を説いたことばである。歷劫というのは、いまだ一心も一念も萠(もよお)さざる以前である。長い月日のほかには何もないのである。また、無名というのは、その歷劫の月日のほかには何ものもなく古鏡・明鏡のほかなにものもないことである。無名が本当に無名であるならば、歷劫もまた歷劫ではあるまい。歷劫が歷劫でないならば、三聖のことばもまたことばではあるまい。だが、しかし、一念のいまだ萠さざる以前とは、つまり、今日のことに他ならない。その今日を取り違えないで錬磨しなければならない。歷劫無名などといえば、そのことばはまことに厳めしいが、いったい、何をゆびさして古鏡というのであるか。といってしまえば、まったく尻つぼみのことである。(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「各背一面のことば、虚説なるべからず、道得是なり。しかあれ、ば猿か、古鏡か。筆渠作麼生道。われらすでに猿か、猿にあらざるか。たれにか問取せん。自己の猿にうるか、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある。模索およばず。三面いはく、「歷劫無名なり、なにゆゑにかあらはして古鏡とせん」これは、三聖の古鏡を証明せる一面一枚なり。歷劫といふは、一心一念未萠以前なり。劫裏の不出頭なり。無名といふは、歷劫の日面月面、古鏡面なり、明鏡面なり。無名真箇に無名ならんには、歷劫いまだ歷劫にあらずば、三聖の道取これ道得にあらざるなし。しかあれども、一念未萠以前といふは今日なり。今日は蹉過せしめず錬磨すべきなり。まことに歷劫無名、この名たかくきこゆ。なにをあらはしてか古鏡とする。竜頭蛇尾。」