「雪峰は、三聖にむかって、ただ「古鏡、古鏡」といえばよいところである。だが、かれはそうはいわないで「瑕生ず」といった。それで瑕ができたというのである。。どうして瑕ができたのだろうか。無劫無名といったのが瑕であるというのであろう。だが、瑕ができても古鏡は古鏡である。三聖はまだ古鏡の瑕の窟(あな)にこだわっていたから、そのような言い方もしたのであろう。それはまったく古鏡の瑕であった。だから、古鏡にも瑕ができる、瑕ができても古鏡であると、そのように学びいたるのが、古鏡の学び方というものである。(道元:正法眼蔵・生死)

「原文」「このとき、三聖にむかひて雪峰いふべし、古鏡古鏡と。雪峰恁麼いはず、さらに瑕生也といふは、きずいできぬるとなり。いかでか古鏡に瑕生也ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、無劫無名とらいふをきずとせるなるべし。古鏡の瑕生也は全古鏡なり。三聖いまだ古鏡の瑕生なりの窟をいでざりけるゆゑに、道来せる参究は一任に古鏡瑕なり。しかあれば、古鏡にも瑕生なり。瑕生なるも古鏡なりと参学する、これ古鏡参学なり。」