「三聖がいった。「什麼の死急ありてか、話頭もまた識らざる」そのいう意味は、まず「どうしてこんなに急ぐのでありましょうか」ということである。いうところの「死急」とは、今日か明日か、自分のことか他人のことか、あるいは、全世界のことか、中国のなかのことか、つぶさに思いめぐらしてみるがよい。つづいて「話もよく解りません」というのである。話というものは、いま語られている話もあり、まだ語られてない話ももあり、すでに語り終わった話もあるが、いまは話の道理を会得することを言っておるのである。たとえば、同じ話でも「大地有情、同時成道」といったたぐいの話は、ただ言辞をつなぎあわせただけで理解できるものではない。だから「識らず」というのである。たとえば「朕に対する者は識らず」というのがそれである。対面しても識らないのである。その時、対話がなかったわけではない、ただ理解できないのである。三聖が「識らず」といたのは、またく赤心を打ち出していったのである。さらにいうなれば、それが明々白々にして、なお解らないというのである。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「三聖いはく、「有什麼死急、話頭亦不識」いはくの宗旨は、なにとしてか死急なる。今日か明日か、尽十方界か大唐国裏か。審細劫夫参学すべきなり。話頭也不識は、話といふは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり。たとへば話頭も「大地有情、同時成道」しきたれるか。さらに再会の錦にはあらざるなり。かるがゆゑに不識なり、対面不相識なり。話頭はなきにあらず、祇是不識なり。不識は条条の赤心なり、さらにまた明明の不見なり。」

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