「雪峰は衆に示していった。「世界の広きこと一丈であれば、古鏡の広きことまた一丈である。世界の広きこと一尺なれば、古鏡のひろきことまた一尺である。その時、玄沙が囲炉裏を指さして問うていった。「では、火炉のひろさはどのくらいでありましょう」雪峰はいった。古鏡の広さに似ているよ」玄沙はいった。「老和尚の足のかかとは、まだ地ついておりませんな」一丈をもって世界とすれば、世界は一丈である。一尺を持って世界とすれば、世界一である。いま一丈といい、一尺というのは、別に異なった尺度を言っているわけではない。そのことをよく考えてみるがよい。世の人々はよく、世界の広さは無量無辺であるとか、かぎりのない法界であるなどというけれども、それは、ちっぽけな自己を推していっておるのであって、まことはほんの隣の村のかなたを指しているにすぎない。この世界をもって一丈だというのは、そのことに他ならない。だから、雪峰は、「古鏡の広きこと一丈、世界の広きこと一丈」といったのである。その一丈という意味を知ろうとなれば、世界の広きことの一端を知らなければならない。(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「雪峰、示衆云「世界闊一丈、古鏡闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺」時玄沙指火炉云、「且道、火炉闊多生」雪峰云「似古鏡闊」玄沙云「老和尚、脚跟末点地在」一丈これを世界といふ。世界はこれ一丈なり。一尺これを世界とす、世界これ一尺なり。而今の一丈をいふ。而今の一尺をいふ。さらにことなる尺丈にはあらざるなり。この因縁を参学するに、世界の広さは、よのつねにおもはくは、無量無辺の三千大世界及び無尽法界といふも、ただ少量の自己にして、しばらく隣里の彼方をさすがごとし。この世界を拈じて一丈とするなり。このゆゑに、雪峰いはく、古鏡闊一丈、世界闊一丈るこの一丈を学せんには、世界闊の一端を見取すべし。」

火炉:囲炉裏であるが、その意味するところは、うちに火焔をいだく人間、もしくは、その人間の背形成するこの世界を指していることと理解しなければならない。