「古鏡ということばを聞けば、うすい一枚の氷の板のようなものを思うであろうが、さにはあらず。また、その広さ一丈といえば、世界のひろさ一丈というと同じではあるが、その趣は、かならずしも、世界の果てしなきに比すべきものでもなく、おなじだというのでもない。そこをよくわく研究してみるがよい。さらにまた、古鏡とは、一粒の珠のようなものでもない。明るいと考えるべきでもなく、円とみるべきでもない。たとい、この全世界は一顆の明珠であるといっても、それと古鏡とがおなじものであろうはずはないのである。詮ずるところ、古鏡は、誰がやってきてその面をうつそうとも、いつでも玲瓏として滞るところがない。その闊さというのは、ただ数量をいうのであって、広い狭いというのではない。世の中で二寸三寸といい、七個八個と数量をかぞえるのとおなじである。仏教でも、悟った者、悟らぬ者を数える時には、二両・三両などということがあるし、仏祖を数えあげる時にも、五枚・十枚などという。また一丈というのは、古鏡の数であり、今日は一枚なのである。」(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「古鏡の道を聞取するにも一枚の薄氷の見をなす。しかにはあらず。一丈の闊は世界の闊一丈に同参なりとも、形興(ぎようこう)かならずしも世界の無端に斎肩なりや、同参なりやと功夫すべし。古鏡さらに一顆珠(かしゅ)のごとくにあらず。明昧(めいまい)を見解(けんげ)することなかれ、方円を見取することなかれ。尽十方界たとひ一顆明珠なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。しかあれば、古鏡は胡漢の来現にかかはれず、縦横の玲瓏に条条なり。多にあらず、大にあらず。闊はその量を挙(こ)するなり、広をいはんとにあらず。闊といふは、よのつねの二寸三寸といひ、七個八個とかざふるごとし。仏道の算数には、大悟不悟と算数するに、二両三両をあきらめ、仏仏祖祖と算数するに、五枚十枚を見成(けんじょう)す。一丈は古鏡闊なり、古鏡は一枚なり。」