「玄沙は、火炉をゆびさして「闊(ひろ)きこと多少ぞ」といった。「ひろさはどのくらいか」ということである。そんな言い方が現れてくると、これまでの「多少」などということばは、どこかに消し飛んでしまう。即座にずばりと解脱したなどという道理も、なるほどと頷かれるというものである。その火炉が、どんに形のものでもなく、どんな大きさのものでもないことは、玄沙のことばでよく判る。この目の前の団子を、うっかり取り落としてはならない。むしろ、地にぶっけて砕いてみるがよい。それが工夫というものである。そこで雪峰が答えて「古鏡の広さに似たようなものだ」といった。その答えのことばもしずかに振り返ってみるがよい。ここでは、火炉のひろさもまた一丈というべきではないから、このようにいったのである。さきには、古鏡のひろさもまた一丈というべきではないから、このようにむいったのである。さきには古鏡のひろさ一丈といったのが善くて、いま古鏡のひろさとおなじだといったのが悪いわけではない。そう答えたのも、善い範例として学ぶに足るであろう。おおくの人は「火炉のひろさも一丈」といわなかったのがいけないと思っているようであるが、そうではない。闊さという意味が独特なものであることも思わねばならない。古鏡は一枚であることも振り返ってみなければならない。とともに、また、その二つを「如」の一字をもて結んだ表現も立派な手本である。それを取り間違えてはならない。それもまた「躍動する姿をもって古路をゆき、理路にかかわって悄然の人とならず」ということであろう。(道元:正法眼蔵・古鏡)

原文「闊多少の言きたりぬれば、向来の多少は多少にあらざるべし。当処解脱の道理、うたがはざりぬべし。火炉の諸相諸量にあらざる宗旨は、玄沙の道をきくべし。現前の一団子、いたずらに落地せしむることなんれ、打破すべし。これ功夫なり。雪峰いはく、如古鏡闊。この道取するなり。一丈といはんは道取是にて、如古鏡闊は道不是なるにあらず。如古鏡闊の行李をかがみるべし。おほくの人のおもはくは、火炉闊一丈といはざるを道不是とおもへり。闊の独立をも功夫すべし。古鏡の一片をも鑑照すべし。如如の行李をも蹉過せしめざるべし。動容揚古路、不堕悄然なるべし。」