「その足のかかとは、まだ地についていないという。その地というのは、一体どんなものなのか。いまの大地というのは、一般の人々の所見にしたがって、いちおう地といっておるだけのことたで、さらに所見を異にすれば、あるいは不可思議の解脱の法門とみるものもあり、あるいは三世諸仏の行道とみるものもあろう。それ故に、足のかかとがつくべき地とは、なにものなるか。いったい、地とは実在するものであるか、実在しないものであるか。あるいは、いったい地というものは,仏道においてはまたく無かるべきものであるか。問い来、問い去り、あるいは、他に語り、自己に語ってみるがよい。あるいは、また、足のかかととは、地につけるのがよいのか、つけないのがよいのか、また、どうしてまだ地についていないというのか。もしも大地に寸土もない時もあれば地につけるというのも不十分であり、地につけないというのもおかしい。とするならば、老和尚の足のかかとが、まだ地についていないらしいというのは、老師の心境をいうに、しばらく足のかかとをもって語ったものであろう。(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「未点地在は、地といふは、是什麼物なるぞ。いまの大地といふ地は、一類の所見に準じて、しばらく地といふ。さらに諸類あるいは不可思議解脱法門とみるあり、諸仏所行道とみる一類あり。しかあれば、脚跟の点ずべき地は、なにものおか地ととせる。地は実有なるか、実無なるか。またおほよそ地問不物は、大道のなかに、寸許もなかるべきか。問来問去すべし、道他道己すべし。脚跟は点地也是なる、不点地也是なる。作麼生なればか未点地在と道取する。大地無寸土の時節は、点地也未なるべし。しかあれば、老漢脚跟未跟点地在は老漢の消息なり、脚跟の造次なり。