「古鏡を磨かないときはどうか」「金華山の国泰院弘蹈禅師に、ひとりの僧が問うた。「古鏡のまだ磨かない時は、どんなでありましょうか」師はいった。「古鏡」僧が亦問うていった。「では磨いてからは、どうなるのでしょうか」師はいった「古鏡」それでも判るように、いまいうところの古鏡には、磨くときがあり、まだ磨かぬときがあり、また磨いたあとの時があるけれども、いずれも同じく古鏡である。したがって、また、古鏡を磨くときには、古鏡そのものを磨くのである。古鏡でない水銀などを混ぜて磨くのではない。また、自己を磨くでも、自己が磨くでもない。ただ古鏡を磨くのである。また、磨かない時にも、それを昧いわけではない。よく昧とはいうけれども、昧いわけではあるまい。もともと古鏡は活きているのである。これを要すれば、鏡をみがいて鏡となすのであり、瓦を磨いて鏡となすのであり、さらにいえば、瓦をみがいて瓦とんすのであり、鏡を磨いて瓦となすのである。世には、磨いても鏡とならないものもあれば、鏡となることができるのに磨かない物ある。それがすべて仏教というものである。」(道元:正法眼蔵・古鏡)
原文「婺州金華山国泰院弘蹈禅師、ちなみに僧とう、「古鏡未磨時如何」師云「古鏡」僧云「磨後如何」師云「古鏡」しるべし、いまいふ古鏡は、磨時うり、磨後あれども、一面に古鏡なり。しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。古鏡にあらざる水銀等を和して磨するに非ず、磨自自磨にあらざれども、磨古鏡なり。未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし。活古鏡なり。おほよそ鏡を磨したて鏡となす、磚を磨して鏡となす。磚保磨して磚となす。鏡を磨して磚となす。磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。おなじく仏祖の家業なり。」