「もしも磨いた瓦が鏡とならないならば、鏡を磨いても鏡となすことはできまい。誰が考えたことでもあるまいが、同じ「作」の一字を冠して、作仏といい、また作鏡というのではないか。また、古鏡をみがくにあたり、あやまって瓦としてしまうことはないかと心配する者もあろうか。だが、この磨く時の消息は、他の場合をもって推し測るべきものではない。ともあり、南嶽のことばは、まさに言うべきことを言いえているのであって、結局するところ、かならず瓦を磨いて鏡となすことをうるのである。では、いまの人もまた、その瓦をとって試みに磨いてみるがよい。きっと鏡となすことをうるであろう。もしも、瓦が鏡とならないものならば、人が仏になろう筈がない。もしも、瓦は泥のかたまりだと軽んずるならば、人もまた泥のかたまりと軽んじねばならない。人にもし心があるとならば、瓦にもまた心があるはずである。誰が知ろうぞ、瓦を磨ききたって鏡を現ずる鏡のあろうことを。また、誰ぞ知らん、鏡を磨ききたって鏡をなせる鏡の存することを。」

原文「磨塼もし作鏡せずば、磨鏡も作鏡すべからざるなり。たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。また疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれども、南嶽の道まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなはちこれ磨塼作鏡なるべし。いまの人も、いまの塼を拈じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずば、人ほとけになるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼もこころあるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。またたれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを。」正法眼蔵 古鏡 仁治二年辛丑九月九日、在観音導利興聖宝林寺示衆。