「経巻とは」「最高の智慧を修するには、あるいは善知識に従い、あるいは経巻をもちいる。善知識というのは全自己の仏祖であり、経巻というのは、全自己の経巻である。これをひるかえしていうならば、全仏祖の自己であり、全経巻の自己であるがゆえに、かくいうのである。自己とはいうけれども、それは、もはや我と汝の関係ではなく、そこにはただ活ける眼晴があり、活ける拳頭があるのみである。それでもなお念 経があり、看経があり、誦経があり、書経があり受経があり、持経ということがある。全て仏祖のなしきたれるところである。(道元:正法眼蔵・看経) 

原文「阿耨多羅三藐三菩提の修証、あるいは智慧をもちゐ、あるいは経巻をもちゐる。知識といふは、全自己の仏祖なり。経巻といふは、全持の経巻なり。全仏祖祖の自己、全経巻の自己なるがゆゑにかくのごときなり。自己と称すといへども、我儞の拘牽にあらず、これ活眼晴なり、活拳頭なり。しかあれども、念経・看経・誦経・書経・受経・持経あり、ともに仏作の修証なり。」