「経巻とは」仏の経巻に遇うということは、決してたやすいことではない。数かぎりがない国々にあっても、その名すら聞くのも稀である。仏祖のほとりにありながらも、その名を聞くことさえもない者もある。あるいは、その生けるかぎりにおいて、その名さえ聞くことをえない者もすくなくない。仏祖によらざれば経巻を見聞することも、読誦することも、その意を解することもえないからである。かくて、仏祖にまみえて、やっと経巻を学びはじめる。その時はじめて、耳・眼・舌・鼻もしくは身心をあげて、到るところ、聞くところ、語るところにおいて、経の聞・持・受・舌・説等のことが成就するのである。名聞をもとめようがために外道の所説を語るような輩は、とても仏の経巻を知ることはできない。けだし、経巻は、かって菩薩たちが樹や石に書きつけて伝授したものであり、田や畑にいたって、流布したものであり、あるいは、如来が諸国に姿を現して語り、あるいは虚空にあって説いでたものであるからである。。」(道元:正法眼蔵・看経)
原文「仏教あふことたやすきにあらず。於無量国中乃至字名不可得聞なり。於仏祖中、乃至名字不可得聞なり。於命脈中、乃至名字不可得聞なり。仏祖にあらざれば、経巻を見聞・読誦・解義せず。仏祖参学より、かつかつ経巻を参学するになり。このとき、耳処・眼処・是処・鼻処・身心塵処・到処・聞処・話処の聞・持・受・説教の現成あり。為求名聞故、説外道論義のともがら、仏教を修行すべからず。そのゆゑは、経巻は若樹若石の伝持あり、若田若里の流布あり。塵刹の演出あり、虚空の開講あり。」