「いま尊者が力をこめていうところは、その吐く息が人々のそれと同じからぬばかりではなく、人々もまた れぞれその吐く息においても同じではないというのである。それはまた頭頂のことでも、眼晴のことでも、あるいは全身、あるいは全心のことでも同じであって、その担い来り担い去るところは、すべて人々とは、相異なるのである。だが、別々だということは、またすべて同じだということである。ぴたりと一致しているのである。つまり、その吐く息はみんなのすることであるが、人々はそれぞれ別なのである。むかしからその呼吸の消息は知られていなかったのを、いまはじめて明らかにするにあたって、尊者は、それをこの世界に居せずといい、人々のそれとはちがうというのである。それは、人々がその呼吸などをはじめて学ぶ時である。その時というは、むかしのことでもない、また未来のことでもない。ただ今のことのみである。(道元:正法眼蔵・看経)

原文「いま尊者の渾力道は、出息の衆縁に不随なるのみにあらず、衆縁も出息に不随なり。衆縁たとひ頂顎眼晴にてもあれ、衆縁たとひ渾心にてもあれ、担来担去又担来(たんらいたんこううたんらい)、ただ不随衆縁なるのみなり。不随は渾随なり。このゆゑに築著磕著(ちくじゃくがつじゃく)なり。出息これ衆縁なりといへども、不随衆縁なり。無量劫来、いまだ入息出息の消息をしらざれども、而今(にこん)まさにはじめてしるべき時節到来にるがゆゑに不居蘊界(ふこうんかい)をきく、不随衆縁をきく。衆縁はじめて入息等を参究する時節なり。その時節、かってさきにあらず、さらにのちにあるべからず。ただ而今のみにあるなり。」